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論説/まだ5月病かもしれない物流業界の若者へ

2021年6月3日 (木)

話題ある程度は遺物化しているのかもしれないが、社会人デビューした新入社員が患う「5月病」は、毎年この季節の話題に上る。ただし昨年以降、新社会人は5月病どころかコロナ禍に振り回されているので、「早く5月病に悩まされるような、まともな時代が復活してほしい」と真顔で切り替えされるかもしれない。ことしもすでに6月に入ってしまったが、今回は物流業界に飛び込んだ新社会人に向けて、思うところを書いてみたい。(永田利紀)

私自身の入社1年目について書けば、5月病の経験はなく、ただただ必至にドタバタ過ごしていた記憶しかない。身近な同期たちや知人・友人にも5月病とおぼしき者は見当たらなかったし、テレビや雑誌しか見聞きしない他人事でしかなかった。

なので、新社会人の皆様にお伝えできるような心得や処世術の類は、残念ながら一切持ち合わせていない。失敗や挫折ばかりが思い返されるが、少しでも参考になればと思う。

成績劣悪だった私の1年目

私の社会人1年目は毎朝7時前に出社して、事務所の整理整頓や拭き掃除で始まる毎日だった。ちなみに物流関連の会社ではなかった。

午前8時半頃には会社を出て、途中で帰社することなく終日飛び込み営業を続けた。要領と愛想に劣る私は成績劣悪で、400人以上もいる同期入社のなかではずーっと全国最下位クラス。帰社して上司に報告できるネタを得るために、毎日10時間ぐらい歩き回っていた。

(イメージ画像)

多い日には20キロ以上歩いたので、靴がすぐに破れてしまい、足の裏は血豆がつぶれて、靴下を汚すことも珍しくなかった。優秀な同期たちは何件目かの飛び込み先で商談に至るので、私のようにトボトボ歩いている時間は極めて少ないのだった。

つまりできる奴ほど汗だくになったり、雨で上着が濡れそぼったり、風で頭髪が乱れたりしておらず、体力と気力が充実した状態で爽やかに元気よく営業活動をしていて、好循環を繰り返しているのだった。悪循環の典型のような私は常に同期入社組の底を這いながら、ただひたすらに歩き回り、がむしゃらに件数をこなすのみだった。

起死回生の一発は到来する

そんな状態が入社後数か月続いた。俗にいう5月病どころの状態ではなく、夏過ぎにはノイローゼ気味で心身ともに追い込まれていった。入社後3か月を過ぎて契約ゼロなのは私だけだったが、それでも上司は声を荒げるでもなく、かといって慰めたりするでもなく、毎日「今日も取れませんでした」という言葉で始まる私の日次報告を聞いた後、「そうか、明日は結果を出せ」とだけ告げてその日を終えるのが常だった。

「もうこれ以上はできない。このまま会社には居られない」という思いが毎日から“毎時”に変わっていった。退職願をいつ出すべきか、ということばかりを考えるようになっていた。

それでもなんとか続けられたのは、ある日突然、新規契約が取れたからだったのだが、そんな起死回生の一発は、長く仕事をしていれば誰でもいくつかは経験する。大事なのはその一発が到来するまで、続けることができるかだ。世の中には穴に落ちてから這い上がれたハナシよりも、「大器晩成するはずが早世」といった現実の方がはるかに多い。

続けることは簡単ではないが、「負けました」「止めました」を我慢してファイティングポーズをとり続けていれば、幻のクロスカウンターが…といった話は「あしたのジョー」に限った話ではないと信じている。

今の若者たちが持つ落ち着き

新社会人に限らず、今の20代や30代の方々と接して感じることは、私の若い頃と比べてはるかに落ち着いていて、分別や自制を持ち合わせているということだ。何よりも驚きをもって感心するのは、自分自身の身の丈を把握し、地に足の着いた言動をとれる人が多いような気がしてならない。一方、野心や欲望の顕示にはことごとく抑えが利いていて、老成した発言、控えめな行動を専らとする。それはとりわけ男性に目立つ。

(イメージ画像)

ひょっとしたら、上の世代から「若いのに年寄り臭い」「もっとドンドン前に出ろよ」「自己主張と熱意が足らん」などと説教臭いことを言われているかもしれないが、いつの時代も上席や年長者は何か言いたいものと相場が決まっているので、神妙に聞いてやっていただきたい。一式言わせておけば、その場は丸く収まる。

若年世代に感心するのは立居振舞だけではない。物欲と自己顕示の権化だった、バブル世代のしんがりに属する私などは、「ファスト」の冠が付いたフードやファッションを上手く親しみ、あふれる情報に翻弄されるオジサン世代を尻目に、自分自身に必要なモノの取捨選択を適宜行える人々に対して、心の中でひたすら称賛の言葉を並べるのみだ。言い換えれば自己完結できるがゆえに、破綻や乱調や異物にさらされた時がやや気がかりではあるが、オッサンが案じずとも、経験と年齢がそれなりの知恵や老獪さをまとわせるに違いない。

ついでに書いておけば、自身の欲望の追求や顕示は控えた方が好ましいと思うが、周囲への無関心や不関与は時として不実や不義理となる。とはいえワタクシも、そんなことは人生の半分以上をはるかに過ぎて、やっと実感できたのだが。

昔の若者が見た虚構

高学歴や高所得、高級ブランド品、高級車、高級住宅街、高級レストラン、高水準な子女の教育、高名な知人・友人──これらは昭和の終わりから平成の始まりにかけてマスコミがはやし立て、多くの若者たちが憧れたり望んだりしたガラクタの数々だ。

当事者の一人として直截に記すが、当時の若者やその上の世代の大多数が欲してやまなかったモノの実像は、高級車などではなく「高級車に乗っている自分自身」だった。さらに掘り下げれば「高級車を持てない自分は好きになれない」ということになる。

新社会人の皆さんには、そんな貧しい価値観や、虚構でしかないきらびやかさや華やかさには惑わされないでいただきたい。縁あって物流業界に係わりを持ったのだから、最初から最後まで物流業の本質を取り違えず、さらには自身の生き方も過不足なく質実であってほしいと陰ながら祈っている。

私の同世代の多くは、何も持っていなかった頃の自分を思い返すことに背を向け、ひたすらに外から見たハリボテ三昧の自分を自己評価して、その優劣を他者と比べては一喜一憂を繰り返していた。しかし、その先にあったのは砂漠のように寂莫とした景色だった。

老婆心ながら憂いているのは、若い世代が持ち合わせているせっかくの無意識や自尊の価値観を、これから続く社会経験が濁らせたり曲げたりするのではないかということだ。変わらぬことの偉大さを、身をもって知る壮年世代のはかない願いかもしれないが、若き日に心に根付いた「大切なもの」や「本当のこと」をどうか貫いてほしい。

貴方が見るべきは横ではない。ひたすらに前を向いて歩いてほしい。