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生態系の謎を追え、日本郵船が挑む社会貢献の新領域

2026年4月8日 (水)
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環境・CSR陽光きらめく大海原が視界を埋め尽くす太平洋のど真ん中。一匹のトンボが船の甲板にふわりと舞い降りる──この小さな生き物との出会いが、地球規模の生態系の謎を解く鍵になるかもしれない。日本郵船と奈良教育大学が立ち上げた「ウスバキトンボの長距離移動に関する研究」は世界の航路網という産業インフラを、そのまま動く観測網にする試みだ。企業の社会貢献を別の角度から描き直している。

このプロジェクトは、世界中を航行する日本郵船の運航船で働くクルーが、航海中に発見したウスバキトンボの写真や位置情報を記録し、研究者に提供する仕組みだ。調査船をチャーターすれば莫大な費用がかかる海上調査を、日常業務の中で、しかもクルーの自発的な協力によって実現する。企業と学術機関が連携し、多数の船舶から海上を移動するトンボの生態調査を実施するのは、世界初の試みとなる。

物流網が持つ「副次的価値」への着目

従来、企業の社会貢献は、寄付や支援で語られがちだった。だが今回、日本郵船は世界で日々運航される船舶の航路そのものを、生態系の謎に迫る「移動する観測網」へと変えてみせる。

▲日本郵船の自動車船

プロジェクトの推進役、日本郵船 法務・フェアトレード推進グループ統轄チームの黒光康仁氏は「大学などの研究機関だけでは行きづらい場所でも、企業なら船で行ける」と語る。海上でのトンボの目撃情報は研究者にとって宝物だが、調査船のチャーター料金は高額で、青い海原でその一瞬に出会える保証もない。だが商船は、きょうも仕事として世界の海を走り続けている。黒光氏の言う「人もアセット」は、海上で働く社員を大切な資産だと捉え、敬意を示す言い方でもある。

「爬虫類好き少年」が見出した地球規模の謎

世界の海を越えて飛び回る“謎のトンボ”がいる。研究対象のウスバキトンボは、南極を除く全大陸に分布する特異な昆虫だ。黒光氏は「小さい頃から爬虫類が好きで、トカゲやヘビを捕まえては飽きるまで観察していました」と笑う。その黒光氏がとりわけ着目するのはウスバキトンボに見られる「遺伝的な均一性が非常に高い」点だ。

世界中に広がる生き物ほど、その遺伝子は土地ごとにバラバラに分岐していく。それが生物学の常識だ。黒光氏は「捕食者、地形、気候。舞台が変われば適応的な形質も変わり、その裏にある遺伝子の組み合わせが次の世代へ手渡されていく」と語る。ところがウスバキトンボは違う。「どの大陸の個体でも遺伝的特徴がほとんど変わらない」。大陸をまたぐ移動によって集団同士が隔離されず遺伝的交流が続いている可能性が高いが、ルートや時期、仕組みはまだ分かっていない。

黒光氏は、1匹のウスバキトンボが、仮に蚊のみを捕食するとすれば、1日に200匹を食べる点を挙げ、「数が増えれば生態系への影響は大きい」と説明する。幼虫も稲作での益虫になるという報告があり、農業の益虫としても注目されている。

▲飛翔するウスバキトンボの成虫(左)と日本郵船運航船上で観察された成虫(右)

基礎研究が拓く実学への道

黒光氏が真っ先に挙げるのは、沖縄の自然を揺るがしたマングース導入という「わかりやすい失敗例」だ。「ハブは夜、マングースは昼。同じ舞台に立たない相手をぶつけても、噛み合うはずがない。生態を知らずに保護は語れない」。生態系を守る仕事は、地味で確かな基礎研究に立脚している。

ウスバキトンボの渡りを追うのは基礎研究の王道として、黒光氏は「ものすごく広い可能性を秘めている。一箇所だけではなく、世界に散らばる複数の動物、その先にいる別の動物にまで影響が及ぶ研究になり得る」と話す。将来、どこかの国で農業利用の議論が起きたとき、トンボの移動範囲を踏まえた生態系への影響評価ができる。そんな議論の土台を、この基礎研究で用意したいと黒光氏は言う。

現場に負担をかけず、楽しみながら実現する「好奇心駆動型」調査

もう1つ今回のプロジェクトで着目すべきが、商船の現場に余計な負荷をかけずに”海のど真ん中の目撃情報”をかき集めていることだ。黒光氏は「今回のコンセプトは、あくまでボランタリーだ。興味が湧いた方は、情報を寄せてほしい」と語る。業務命令で縛るのではなく、好奇心にそっと火をつける頼み方だ。海上職の社員からは「船の上のクルーは、こういうことに案外目が利く。仕組みが分かれば面白がってくれる」という声もあったという。

このプロジェクトの発端は、社員の自発的な着想にある。動物行動学を学んだ黒光氏は、入社後も「学び」を仕事の現場へ移植できないかと胸の内で探り続けていた。奈良教育大学の小長谷達郎准教授との縁を得て、「船を研究に使えないか」という思いが輪郭を帯び、やがて「トンボならいけるかもしれない」と結実した。「口には出さなかったけれど、いつか形にしたかった」と黒光氏は笑みを浮かべて語る。

物流業界全体ならではの視点――「移動」の再定義

物流の「移動」は、速さや効率だけの話ではない。運ぶ道中は、世界に点在する現場を結ぶ”移動する観測席”にもなる。

▲日本郵船法務・フェアトレード推進グループ統轄チームの黒光康仁氏(左)、同社サステナビリティ経営グループサステナビリティイニシアティブチームの高橋海渡氏(右)

同社は海洋プラスチックの分布調査や、環境DNAで海の生態系を読み解く試みなど、海というフィールドをつかった基礎研究を学術機関と積極的連携して取り組んでいる。今回のプロジェクトを陰で支える日本郵船サステナビリティ経営グループサステナビリティイニシアティブチームの高橋海渡氏は「物流業は社会の根幹に位置するため、業界が与える社会や環境への影響は大きく、責任感は自然と強くなる」と語り、今後について「腰を据えて続け、さらに広げたい。これまでの取り組みに限らず、まだ私たちの知らない分野で、私たちにできることは数多く潜在している」と展望を語る。

産業インフラが運ぶ「未来の手がかり」

物流企業はいま、「運ぶだけ」の看板をそっと外し、社会課題に手が届く産業インフラへと役回りを広げている。世界をつなぐ航路と車輪、現場の目と勘。その総体が、地球の明日に効く“使える資産”になり得る。研究者が踏み込みにくい場所へ、仕事として毎日通っている。その「行ける」強みこそ、物流の身上だろう。

直近の焦点は、日本から南へ引き返す「戻りの渡り」が実在するのか、である。黒光氏は「日本に来るトンボは、死に場所を探しているわけじゃない。ちゃんと生態の意味があるはずで、そこまで議論できたら面白い」と語る。確かめられれば、気候変動が生態系に落とす影の濃淡を測る、ささやかな物差しにもなる。

黒光氏は船でしか拾えない発見や、船を使うほうが研究室より手際よく進む領域を掘り起こしたいとも話す。仕事と暮らしを無理に仕切らず、「面白い」に身を預ける。その軽やかさが、次の価値の火種になる。

企業の社会的責任の再定義、本業の資産を社会の知恵に

この事例が照らすのは、CSRの「次の型」だ。これまでの活動を否定するのではない。ただ、日々の仕事で磨いた航路や現場の目が、そのまま社会課題を解く道具になり得るのに、私たちは見落としてきた。

妙は企業価値と社員の矜持、手触りのある貢献を、同時に立ち上げたところにある。既にある資産を、社会の知恵へと翻訳したわけだ。

黒光氏の専門性と情熱は、社内の机上で終わらず、世界の海へとせり出していった。高橋氏らがその芽を見逃さず、組織の推進力へ変えたことで、研究は一人の趣味から地球規模の航路へと伸びた。個人の知見に「面白い」と言える会社は強い。産業インフラは物だけでなく、未来の手がかりも運べるのだと、このプロジェクトが物語っている。(星裕一郎)

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